今日は爽やかないいお天気、衣替で洗濯をしました。
そして合間にブラウザーの文字設定を変えてみました。あるブログを読みやすくするために。
1ヶ月ほど前、調べ物をしていて、偶然「いたいの痛いのとんでいけー」というブログに出会いました。衝撃だった。こんな人が…昨年秋に亡くなっておられたなんて(2009年9月のことでした)。
まめ(西島祥子)さんは18歳から24歳までの青春のまっただ中を、闘病と勉学と仕事に全力を尽くし、そして詩やスケッチを残して鮮やかに生ききった。ブログのアドレスに crps-demo-waraouyo (crps-でも-笑おうよ)とあるように、明るく前向きに。ちょうど私も入退院していた時期に、彼女も闘病しておられた。いつか良くなる希望を持って、つらい治療に積極的に立ち向かって、でも、その治療が裏目に出たかのように悪化して帰らぬ人となった。
考えてみたら、とてもとても深刻な内容なのに、文があまりにも明るく元気で健気な女の子の言葉で、というギャップに涙で目が霞んで、なかなか読み進めなかった。それとブログ本文の文字がやや薄い設定で、私のパソコンでは見難かったので、ブラウザーの初期設定を、サイトのカラーを無視するという設定にして、やっと大部分に目を通す事が出来た。一日一日の記述に宝物のような爽やかさがある。輝くような心の持ち主だったんだなあと思う。彼女の生来の性質に加えて、泣いて泣いて泣き尽くして、その上での心境だったかもしれない。自分も本当に生きている事に感謝して、自分を生かす事が出来る事を一生懸命やらないと、本当に恥ずかしい。
以下にブログ冒頭部分からの引用と、健康だった彼女が、両足と左手の全廃という重い障害に至りながら、作成されたサイトとお友達のブログなどを紹介します。
■『いたいの痛いのとんでいけ 〜CRPS・ジストニアと共に〜』
*アーカイブサイトなので読み込みに時間がかかります
「ある日突然・・・、原因不明の進行性難病だと告げられたら、 あなたならどうしますか?看護師を目指していた大学生のとき、CRPS(RSD)と全身性の固定ジストニアだと診断されました。涙は枯れないけれど、いつも明るく笑顔でいたいな♪♪ そんな日々の日記です。
看護師になることを夢見て、大学に入学した18歳の冬、私は突然CRPS(RSD)を発病しました。
それは、ちょっとした手術が原因で起きた悲しい出来事でした。
それから、固定ジストニアという原因不明の難病、肺胞低換気、多嚢胞性卵巣症候群を次々に発病。左手と両足の自由を失いました。
脊髄刺激装置(SCS)とバクロフェンポンプ(ITB)を体に埋め込む手術をして、長い長い入院生活を送りました。
でも、負けてなんかいません。
今は、世にも珍しい車椅子ナースとして病院で働いています。
毎日、命を見つめてたくさんのことを学んでいます。
そんな闘病生活の中、たくさんの言葉のカケラが頭をよぎったのです。
そんな言葉を集めてできたのが詩でした。
そして詩集を自費出版したところ、多くの方から共感をいただきました。
また、私が書いた詩が合唱曲になり、それが楽譜になり音楽之友社から「混声合唱とピアノのための4つのポエム」として発売されました。
いろんな事に挑戦したい・・・そんなまめの日々の出来事を綴った日記。それがこのブログです。」
小説や詩や芸術、その他様々な分野に賞があるけれど、こんな詩を生み、真剣に「生きた」その事に誰もが心から賞を贈ると思う。
彼女自身が友人の死を悼んで書かれた文が、
そのまま全ての人へのメッセージになっています。
レクイエム 2007年8月21日
私のお墓の前で
泣かないでください
そこに私はいません
ねむってなんかいません
千の風になって
あの大きな空を吹きわたっています
私の大切な友人が旅立ちました。
彼女とは、東京の病院で知り合った仲
笑顔のすてきな方でした。
いま、あなたは自由を得ていますか?
苦しみから解き放たれていますか?
だとしたら・・・
うれしいな・・・
--2010.04.17 Saturday--
[追記]
■『青空のように』西島祥子さんの詩のサイト
(祥子さんの渾身のHPだったと思いますが、閉じているためアーカイブです)
ドキュメンタリーもあったのですが、動画は見当たりません。
(まめさんの先輩、ひまわりさんによる紹介ブログ)
◇『混声合唱とピアノのための 4つのポエム』(楽譜:音楽之友社)
詩集は自費出版だけなのですが、楽譜が音楽之友社から出版されています。
■その後、医学が進歩しているようですが、まだ世界で一人の医師しか施術されないという。
【局所性ジストニア 定位脳手術】 (東京女子医科大学脳神経外科 平 孝臣先生)
Focal Dystonia Stereotaxic Brain Surgery
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ブログに訪問くださり有難うございます。
順位は変動するでしょうが、おおよそのBEST5は以下の通りです。
・明日は衆議院選挙投票日(がん対策基本法の山本議員の情報含む)
自分としては、他にも色々と感慨深いページはあり、
その代表は、「葉っぱの散歩道に再会」と、
他には、記事の上とブログ上部にメニューの様に表示している、
病院,患者会,治療(カテゴリー)と、「星への手紙」北原敏直 などのページやリンクです。
重複しますが、下にもそれらを表示させていただきます。
◇ブログ全体の上部
◇記事の上部
病院,患者会,治療|私の多重がん体験|星への手紙|車椅子の看護師|風景と情景
・太字(青)が、闘病記(途中からの闘病も含めて)で、
・太字(ピンク)は、心の癒しとして保存した、地球を俯瞰する動画「美しい地球」や、永山裕子さんの絵に「黒い瞳」のメロディーを合わせた動画などです。
*また、病気とは全く関係ない記事ですが、Newsにビックリして書いた、次のページのアクセスも高いです。
2019.11.16の記事ですが、時々見返したいため日付を追記した年(2022.11.16)にしています。
昨日、予約日を1日過ぎてから思い出して、予約の取り直しをしてもらいました。
今月末に変えてもらいましたが、実は病院(大阪国際がんセンター)に行った帰りに、谷町周辺を歩くととっても素敵な店が、いくつも増えているのが嬉しいです。
昔は、天満橋〜谷町周辺に、紳士服屋だった父の仕事場があって、取引先もあり本当に馴染みが深いんです。
就職してからも、会社が北浜だったり本町だったり、仕事上の用事で中央区はよく歩いていました。
大阪市中央区には、以前はMUC珈琲が数軒あって、職場の近くの店にはよく行きました。
どの店もクラシックなデザインで、ピカピカに磨かれていました。
MUC珈琲の数は減ったけれども、病院から足を伸ばすと行ける所に、一軒残っているのでほっとします。
住所 大阪市中央区内平野町2-1-2-1F
TEL 06-6945-9805
営業時間 7:00〜19:00
定休日 日曜、祝日
席数 18席
禁煙席 無
駐車場 無
当店のおすすめ シナモントースト・サンド
他店のことも含めて、思い出を呼び覚ましてくれる大切なお店だから、また寄ってみたいです。
JUGEMテーマ:カフェ@京阪神
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1)『口腔・咽頭がん患者会』ホームページは、患者会代表(三木祥男氏)により、大変内容の充実したページとして運営されています。
2)がん患者会『1・3・5の会』(病院・部位を問わない患者会)のホームページも設けられていますので、どうぞご参照下さい。
【2011.9.8の記事】
「口腔・咽頭がん患者会」(大阪府立成人病センター内)の、ホームページの土台がようやくできました。内容はまだ少ないのですが、第一歩を踏み出しました。
URLは https://cancer-of-h.jimdo.com
* * * * *
以下は自動的についた、告知です。
(2011.3.11に関わる記憶保存の運動です)
未来へのキオクとは?
震災で、写真、動画という形の多くのキオクが失われました。
一度なくした思い出も、みんなで力を合わせればきっと取り戻せる。
その思いを可能にする場所が、ここ「未来へのキオク」です。
個人の思いや願いが込められた募集テーマに、
インターネット上のたくさんの人が写真や動画の投稿で応えていくしくみ。
募集がなくても、自分が残したい思い出があれば投稿できるしくみ。
キオクを未来へとつなげるために、みんなで作っていくこのしくみを用意しました。
あなたのキオクが、だれかの未来の支えになるかもしれない。
ひとりでも多くの方のご参加を、お待ちしています。
にほんブログ村参加中。よろしければクリックの応援お願いします。
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だいぶ以前になりましたが、お世話になっている患者会「口腔・咽頭がん患者会(頭頸部がん患者会)」の会長さんからメールで、体験談を文集にしたいとの事で連絡を頂きました。それを期に「口腔・咽頭癌患者会」で発表した体験記を、ここに転記しておくことにしました。患者会の時間内という制限があるので簡略に話しましたが、話せばきりのない想像した事もない経験の連続でした。
大阪府立成人病センターの建物は老朽化していたが、敷地脇に花壇があるという事が救いでした。
ただし最初の入院中は、ほとんど外に出なくてゆっくり見ておらず、その後の通院の帰りに撮影。
私のがん体験
(発表日は2011.5.15(日):病院についての記述は、大阪府立成人病センター時代の事です)
副鼻腔がんと乳がんで、7年前に成人病センターにお世話になりました。私が最初に、この病院に来た時、こんな先までの事は考えられませんでした。患者会の中には退院されて日の浅い方もおられるので、平凡な体験かも知れませんが、退院して6年とか7年とか経った者の話を聞かれたら少しは安心されて良いかなと思い、話をさせて頂きます。
最初に自己紹介させて頂きます。大阪生まれで学生時代は東京で過ごして、卒業後は兵庫県にいて、今は(大阪府の)I市在住です。入院前は店舗や住宅インテリアの設計とか,資格対策講座や、専門学校等の非常勤講師もしていました。
結構忙しい仕事で、バタバタしている間に何だか左の鼻がおかしいなと思い、耳鼻科のお医者さんに行ったのですが、鼻炎だからと内服薬を下さったので、薬局で買っても同じかなと、半年ほど市販の内服薬で過ごしていました。片方の鼻だけ、鼻水のオレンジがかったのが出て、血が混じっているみたいだけど…おかしいかなと思いながら、子供も二人いましたし、忙しさに紛れてしまいました。
2004年の春休みに、片側だけ顔が腫れているような気がして、これはちょっとおかしいなと、どこかお医者さんに行かなきゃと、近所の医院でMRIもCTもある所に行きました。普通の内科医院ですが、すぐCTとMRIを撮ってくれて、検査室から出ると、技師さん達が「これは、エライことだ」みたいに顔色が違うのですよね。どうなのかしらと思いながら説明を聞くと、私は落ち着いていたのですが、お医者さんの方が「Iさん!落ち着いて下さいね。」って、「もしかしたら大変な事かも知れない・・・。でもひょっとしたら、ただ形が大きいだけかも知れないけれど、念のため関西で一番の病院を紹介しますので、1日だけ待ってください。自分の知り合いを辿って、ベストな方を紹介しますから」ということで1日待ちました。そして次の日に、ここ(成人病センター)の、この方を主治医にという、先生宛の紹介状を頂きました。
初めて来た時には、すごく古い病院だなと思って、暗い気持ちで居たのです。診察を待っている時、その頃は今よりも待合室がもっと暗くて、昔に治療された痛々しい方がおられたので、えらいところに来てしまったなと思いました。最初は鼻の前から取れる範囲で、細胞診をされたのですが、その結果は良性でした。ただし「大きさからみると、かなり悪性の可能性が高いし、オデコにも影があるので、それも含めて、こうこう、こういうことをしないといけないし、頭蓋骨にドリルで穴を開けなくてはいけません」と言われました。ハハーっという感じであっけに取られているうちに,どんどん、どんどん事が進んでいきました。
入院してみたら、先生や看護師さんは、すごく丁寧に親切にして下さったし、病院の暗いイメージを吹っ飛ばすくらい明るい看護師さんも多かったので、良いところに来たなと思ったのです。病室は4人部屋だったので、他の人の話を聞いたら3回目の入院だという人もおられて、へぇー3回も手術する人があるのだと、気が遠くなるような感じがしました。自分がその後3回手術をしたのですが、手術の度に、その何回も手術された方の事を思い出して気を落ち着けました。
済んでしまうと、この程度で済んで良かったと思うものの、やはり普通の日常とはすごく違う世界を知ってしまって、その落差に驚きます。助かったから、こういう体験も人生経験としては良かったなと思いますけれど、病気にならないに越したことはないので、子供達には「体の不調に、気を付けるように」と、今後も言っていこうと思います。
病気自体は、ここ(鼻の脇)の中にピンポン玉くらいの空洞がないといけないらしいのですが、左側の空洞が一杯なくらい大きな腫瘍になっていたのです。CTで、「ここに影がありますよ」という状態で、成人病センターに来て、「この大きいピンポン玉を取るのに、もし良性だったら、そのまま、すぐ取ります。でも良性でなかった場合は1回閉じて、後の事はまた相談しましょう。」ということで、とりあえず開けてみないと分らないし、急げ!と、割と早く日程を取って下さって手術にかかったのです。
ここ(副鼻腔)と、ここ(前頭洞)に影があり、同じ日に開けて見たのですけれども、前頭洞は繊維みたいなものがたまっていて、癌とは関係ないとのことでした。そして、こちら側(副鼻腔)は手術中の細胞診で悪性だと分かり、その時点で、「取るのは止めて、超選択的動注をするために、耳の後からアプローチしたけれど血管が細くて、これ以上いじると大出血したりするので諦めます。」という説明があったと、後で父に聞きました。
数日後の説明で、癌の種類は扁平上皮癌高分化型で「放射線と抗がん剤の治療でも、うまく行けば治ります。もし切り取ってほしいというのであれば、目も含んだ状態で大きく切ります。手術となると、それくらい取らないと安心出来ませんが、どちらかを選べますよ。」とのお話でした。その時の印象深い言葉で、「だけど入れなくていいメスを入れるのは、僕は犯罪行為だと思います。」とおっしゃったのです。「手術しなくても、うまく行けば治る」という言葉があったので、「じゃあ手術しないで放射線と抗がん剤で」と、お願いしました。説明後にベッドの方で、どうなるのだろうなあと不安そうな顔をしていたと思うのですが、主治医の先生が、「うまく行けば、というのは当てモノで言っているようなことではなくて、うまく行くという見通しがあって言っていますから、安心してください。」とニコッとされたのですね。その時の事がすごく印象に残っています。
普通の診察の時は淡々と、補足とかは全然なく、医学的説明だけをされる先生なので、少し不安だったのですが、入院してからは、この時ニコッとされたのと同じ調子で、色々な説明を丁寧にしていただきました。その先生の手術後の様々なお話とか、看護師さんの親切さで、すごく入院生活が、楽しくというと変ですが、安心して過ごせました。それはとても良かったなと思います。
何時どのお薬をしてとか詳しく記録される方もありますが、私はあんまりメモしていないのですけれど、抗がん剤をしながら放射線の治療を60グレイしたというのは覚えています。皆さんもご承知と思いますが、放射線はそんなに辛くはないです。でも抗がん剤は目茶苦茶吐き気が強く、3クールの予定を、2クールでギブアップして、もう勘弁して下さいと、終わらせてもらいました。
放射線の方は、順調に回復しているとのことでした。ここの病院では部長が定期的に診て下さるのですが、部長診察の時にも「よく効いているね。」と言って頂きました。最後に治った筈のところをプチプチと細胞診のために取ってもらい、またこれで悪くなったらどうしようと思いながらも、ほっとしました。
2004年5月に入院してから、3ヶ月後の8月初めに、一応治ったということで、ちょっと不安だったけど退院となりました。その頃は専門学校の非常勤講師だったのですが、幸い学校は夏休みに入っていたので、ちょっと休めました。前期は友人に授業計画を渡してバトンタッチして、後期は自分でということで、退院後2ヶ月で仕事に復帰したのです。
入院した時に出来た闘病仲間の方と偶然に家庭環境がよく似ていて、その頃はメールのやり取りで、すごく元気付けてもらって、回復のために良かったなと思います。でも病気が良くならなかった人もあって、私が随分励ましてもらったのに,逆になっちゃったなあと、悲しい思いもしました。それでも、残念な結果だった人よりも、無事(存命)な人の方が多いし、傷跡が綺麗なので、成人病センターは、他で見聞きする例と違うなあと、しみじみ感謝しながら数ヶ月経ったのです。
診察の時に、先生がいつも首を触診して下さるのですけれども、11月頃「おかしい」と言われました。転移しているということで、リンパ節の郭清を、今度は冬休みにしました。クリスマス前に手術して、お正月明けに退院でした。
転移したのですから、これは何とかしなくちゃと思っている矢先に、何かちょっと胸の辺が硬い、どうもおかしいなと気づきました。今度は乳癌かもしれないという事で、また紹介状を書いてもらって、別の癌になったのか、転移なのかと、すごく思い悩みながら、もう1回ここ(成人病センター)の外科のほうで診てもらったのです。
やはり細胞を検査しないといけないので、注射器の親玉みたいなものを刺して、ガッと細胞を掴んで、むしり取るけど、「麻酔をかけますから大丈夫」と先生はおっしゃったのです。だけど目茶苦茶痛かったですね。弾丸が当たったみたいに、すごく痛い。涙を浮かべて辛抱しました。後で、もう1回することになって、その時は麻酔が効いたみたいで、そんなに痛くなくて、本来は最初のようには痛くはないのだ、麻酔の失敗もあるのか…と思いました。
この細胞は、腺癌(副鼻腔がんとは別)で、先生は「浸潤性(予後が悪い)という疑いもある。でも非浸潤性(予後が良い)の方が可能性は高いと思います。手術の時にもう1回調べますから」と言われ、平たく面積が大きい形だったので、片方の乳房全摘でした。「手術中の細胞診でも浸潤性の可能性があり、念のためリンパ節も全部取りました。腕が動きにくくなります。」というようなことで、リハビリの方法とかも教わって、3回目の退院となったのです。(術後の検査で非浸潤性と判定されてホッとしました。リンパ節は惜しいけれど。)
結局3回も手術を受けることになったのですが、先生方の説明は、曖昧さがなく、すごくはっきりしていて、最初の説明の時も「このまま放っておいたら、間違いなく命を奪われます」とおっしゃったのでドッキリでした。もちろん治療すれば、治る可能性はあるのですが、「命を奪われる」という言葉は私にしたら、かなりショックで、要注意と聞こえました。でも、そういう恐れもあったとは思います。後で耳鼻咽喉科(頭頸部外科)の主治医に何期だったのでしょうかと伺ったら,「最初?期と?期の間と思いましたけれど、転移したということは…(少し進んでいたということでしょう)」という答えだったので、?期だったのだなと思いました。
転移と多重がんという経験をした後で、何とかこれは食い止めなくてはいけないと思い、サプリメントとか、病気関連の本とかに引きつけられました。書店でも、図書館に行ってもそういう所に足が向いてしまい、癌関係の本も、立ち読みを含めてだいぶ読みました。また知り合いに病気と伝わると、変な販売方法(マルチ商法)で、営業をされる方があって、色々効能があると聞き、1通りは試してみましたが、あまり効果も分からないままでした。ただ試すことで気が紛れたのは良かったかもしれません。一番反省したのは食事療法を、少し知識はあったのに、あまり実行していなかった事です。
それで3度目の退院後は『星野式ゲルソン療法』や、境野米子さんの『病と闘う食事』という本を参考にして、自分流に、とりあえず食塩と砂糖は止める、という感じで始めました。元々食塩が入っている食品は、それは(含まれた食塩は)避け難いです。「普通の食品の中に含まれている塩分はいいわ(見過ごそう)」と、出来る範囲だけで、工夫することにしました。ただ、つゆとかは極力減らして、外食の時は、ざる蕎麦にして、ちょっとだけつゆに漬けるのですけど、あとは無塩のまま食べるという感じで、自分で出来る範囲の方法と、野菜ジュースを飲んだり、青汁を飲んだりとかを続けました。
娘がいちいち「お母さん,それはダメ」と注意してくれたので、それに従って、難しいことは抜きに、出来る範囲のことだけしてみました。甘い物は好きでしたが、おやつにも味付けにも、ほぼ禁止しました。「少しは休みを設けてもいい」と書いてある本も読んだので、ここ(病院)に来て診察をクリアしたら、帰りには自分の好物を食べたり、買って帰るなりして、1年半位はおっかなびっくりしながら過ごしました。
そんなことをしているうちに、無事な期間も長くなって、ある程度安心感を抱けるようになって来たので、2年後ぐらいから、だんだん緩めて、今は普通の食事に少し減塩の工夫をしています。
病気になったのは、忙し過ぎたというのが、原因ではないかなと思っています。あんまり器用でない人間なのに欲張って、仕事も家庭の事もしないといけないと、成り行き上、無理な状況になってしまっていました。頼まれた仕事は皆受け、アルバイト的なことも引き受けましたので、余りにも仕事が多すぎたのだなと思います。入院した当初も仕事を持って来て、看護師長さんに目を丸くされたような事がありました。今は景気も悪くなり、自分もこんな病気でブランクもありで、仕事の量も減って、それで無事なのかなと思います。最初の手術後とか、やっぱり転移とかがあった時というのは、もっとスパッと仕事も減らして、ホントに1年位、治療に専念できれば良かったと思います。
退院したら、一応「無理をしない範囲で普通に戻っていいですよ」と、先生はおっしゃいますけれど、それだけではないのですね。心配ばかりしていてもいけないですし、前の仕事を全て断ち切ってしまうと、また逆のストレスもありますので、「普通に戻っていいですよ」という事は、一面良い事なのかも知れません。けれど患者の側としては、やっぱり止めるくらいの、きっぱりと違うことをして、1年位は治療に専念するという方が安全なんだろうなと思いました。
忙しかったので本当は本好きなのに、何年も本を落ち着いて読んでいませんでした。入院中とか退院後は、今まで読んだことのないジャンルの本を読んで「ああ、色々違うことを考えないとイカンのやな」と、人生を別の角度から捉えることが大切だと思いました。
運が良かったのは入院していた時に、カウンセラーのようなお仕事 (公共機関の相談員) をされている方と、偶然一緒だったのです。その方から、普通は水平に物事を見て考えているけど、ちょっと行き詰まったときは,斜め上空から、全然角度を変えて全体を俯瞰して見て、人間関係とかの直接的な事でなく、もっと違う次元から考えてみると良いという内容の本を貸してもらったりしました。その方に5時間位、悩みを聞いてもらって、プロのカウンセラーの方に聞いてもらったような感じになって、それも良かったと思います。
*追記*:これは表現の間違いで、実際にプロのカウンセラーさんでしたが、原文のママにしておきます。入院中もいろんな話をしたし、この時は2人とも退院後に、普通のプロに相談する時にはありえないほどの長時間、友人として聞いてもらいました。私より早期発見で転移などがない方でしたが、同じ患者なのに長時間を費やしてもらって感謝しています。
それと星野道夫さんの、大自然を写した写真集を身近に置いて時々眺めるようにしたり、中村天風さんの「元気になるのには、おヘソの下に気合を入れて精神統一をする」という方法とか、すごい難病と闘った方の本を読むとかして、元気を取り戻すようにしています。
その頃にインターネット上のブログなどを見たりしていて見つけた詩と、先日朝日新聞の天声人語に載っていた詩を、今日持ってきてお配りしました。それだけ読んで終わりにしたいと思います。最初は詩人の島田陽子さんの詩です。この詩は病気になった人の気持ちを、よく表しているなあと思います。(詩の朗読)
「滝は滝になりたくてなったのではない」
滝は滝になりたくてなったのではない
落ちなければならないことなど
崖っぷちに来るまで知らなかったのだ
まっさかさまに
落ちて落ちて落ちて
たたきつけられた奈落に
思いがけない平安が待っていた
新しい旅も用意されていた
岩を縫って川は再び走りはじめる
(2011年4月18日に膵臓がんで亡くなられた詩人・島田陽子さん(享年81歳)の詩)
癌にかかるまで、本当にそこに行くまでは崖っ淵があるということを知りませんでした。今はちょっとだけ平坦なところに居るので、なるべく皆が少しでも平坦な、崖から少しでも離れたところに来れるようになれば良いなと思っています。
後の2つは、北原敏直君という筋ジストロフィーで15歳で亡くなった少年の詩です。(詩の朗読)
「きにしないこと」
きにしないこと
空の雲のように
どこに流されようと
草花のように
たとえ一年の命でも
それで私は時々空の雲を見るようにしています。そういう風に考えた子も居るくらいなのだから、彼の何倍も生きているのだから、もっと悟らなくてはいけないなと思いました。(詩の朗読)
「肉体はなくなっても」
肉体はなくなっても
ぼくは生きている
三次元をこえて
高次元のはて
宇宙の根源と化す
ぼくは死ぬのではない
肉体をすてるのだ
服をぬぐように
肉体をはなれても
ぼくはあらゆるものに生きる
自然のいぶきと化し
足もとの砂にも
満ちている空気にも生きている
そうでありたい
死をこえなにものにも生きる
そうでありたいため祈り
体をなげだしても悔いない
そうでありたい
そうでありたいため祈ろう
(北原敏直 詩集『星への手紙』 新書館より)
こういう風な、『別の次元』で物事を考えていくという事が大切だと思いました。15歳なのに禅の高僧みたいな、こういうことを思って…亡くなってしまったのは残念ですが,彼が残してくれた事(功績)というのは、本当に「綺麗な気持ち」そのものなのだなあと思います。
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先日、「命の選別」という、大西つねき氏の言葉が話題になっていたと思ったら、
今度は、安楽死を助けた医師があったというニュースに驚きました。
容疑者40代医師はペンネームで「高齢者を『枯らす』技術」執筆
Twitterに《オレはドクターキリコになりたい》-文春オンライン-
重い問題です。一般の理解とは異なり、現在一定の状況で一定の手続きを取れば安楽死は可能ですが、とは言えこの患者さんの状況で、この患者さんが受診していた医療機関でそれが可能であったか否かは分かりません。私自身は、現状から少しづつ進めるしかないのではと思います。https://t.co/4Xnam4hP7j
— 米山 隆一 (@RyuichiYoneyama) July 23, 2020
JUGEMテーマ:つぶやき。
長くご無沙汰してすみません。
他に地域ポータルサイトやブログなどを運営しているせいもありますが、
何と言ってもプライベートな介護関連の事が大きいのと、
このブログの前のデザインで、少々使いにくいところがあって、
別のブログに移転しようかと考えたためでもあります。
ところがその後、デザイン(テンプレート)を変えてみたら、
問題点解消、「あら?新ブログ要らないかも」という状態になりました。
でも始めてしまったので、やはり新ブログに移行しようかな?
と思ったり・・悩み中です。
いずれにせよ消してしまうつもりはないです。
というのは、Yahooブログの終了で、知人のブログが消滅してしまい、
そのブログがあった事で、どれだけ気持の支えや資料として、
助かっていたかが解ったからです。
■いつも+2 「いつも+」の後継ブログ(個人ブログ)
■続:葉っぱの散歩道 頭頸部癌患者のためのサイト「葉っぱの散歩道」の継承ブログ
■関連サイト
下記は、地域情報サイトの関連なので、少し目的は違いますがよろしければ覗いてみて下さい。
地域ポータルサイト 北摂なび. com
ブログ 北摂なび.blog
facebookページ 北摂なび free hand
twitter 北摂なび_大阪
あまり更新しない代わりに、2日に一度は投稿やシェアなど何らかの更新をしている
JUGEMテーマ:がん全般
]]>(今は一番上のページに入れています)
どれもとても好きなTwitterですが、その中でもとても救われたTweetを記録しておきます。
あなたが自分でやらねばならないと考えることと、周りの人があなたにやってほしいと期待することは必ずしも一致しない。真面目ないい人ほど自分に課した100%のことができずに、70%とか40%しかできなかったと自身を責めるが、そんなあなたの40%で救われ、笑顔になれた人もいることをどうか忘れずに。
— 精神科医 Dr.Snowman(9さい) (@doctorsnowman05) September 4, 2019
"あなたが自分でやらねばならないと考えることと、周りの人があなたにやってほしいと期待することは必ずしも一致しない。
真面目ないい人ほど自分に課した100%のことができずに、70%とか40%しかできなかったと自身を責めるが、
そんなあなたの40%で救われ、笑顔になれた人もいることをどうか忘れずに。"
— 精神科医 Dr.Snowman (@doctorsnowman05) September 4, 2019
これを書かれたドクターの意図は解らないが、とにかく40%でも良いというところに、
何となく安心感を持てる。
より良くできないからと腐るのではなく、40%でも、しないよりはよほど良いと受け取れる。
タイミングが遅れてしまったとか、あまり得意なことではないとか、
取り掛かること自体が気の進まないことも多々あるが、そんな時にこれを思い出す。
専門学校の非常勤講師をしていた時代に、生徒からとても信頼してもたったと感じることがあった。
例えば作品講評や式典でのあいさつで、後からすごく良い言葉だったと言われたり。
次の学年になって自分の担当科目ではないのに、アドバイスを求められた時など。
もっともっと実績もある先生方も多いのに、学生は私の言葉にも心から耳を傾けてくれた。
そういうチャンスが与えられたことに感謝したいと思う。
ちょうど15年前の今頃は最初の退院後で、職場復帰に向けて準備していた頃。
主治医は退院後は1月程度で普通の生活ができると言われたので、
専門学校の後期授業に向けて、授業計画などをしていたと思う。
その頃は放射線治療が終わったばかりで、後遺症の事などあまり考えてもいなかった。
ちゃんとがんが治癒できるかどうかだけが気がかりだった。
ただ、入院仲間の話では、「放射線は退院後の10年たっても効いているらしい」とのことだった。
骨がジーンとしびれている後遺症も、5年程度で治るだろうと思っていた。
ところがどっこい、その後転移や多重がんを経て、15年も経過したのに、
腫瘍が上顎洞にできていたので、左上顎(頰のほぼ中央部)にかけられた放射線の影響は一向に軽くならない。
それどころか、頭全体が重く鈍痛があった時より、範囲は少し狭まっているが、
痛みは強く感じる。
重症になったというより、ある意味治ってきてるのだろうが、頭部全体の鈍痛だったのが、
ああここに放射線をかけたのだなという、一点を中心に顔の半分ぐらいに痛みがある。
全体にぼやっと重痛い感じとどっちが良いかわからない。
もっとマシになってくれないかなと、思いながら、Blogを見直していたら、
特に自分を励ましてくれた記事をメニューのようにしたくなって、
あまりデザイン的には良くないが、ブログの上部に表示されるようにした。
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病院,患者会,治療|風景と情景|星への手紙|看護師まめさん|美しい地球|黒い瞳
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左の治療経過は、自分の病気に関しての記事だが、
その他は勇気付けられたブログやYoutubeへのリンクです。
他の方のブログに出会えて本当に良かった。
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]]>
JUGEMテーマ:がん全般
「明日もいい日にしてみせますよ。ではまたね。」
最近、がん関連の事を検索をしていて見つけたブログが、「風景と情景」です。
そのブログは各記事の最後に、この言葉が書かれています。
病気になる数年前からブログを書かれていて、最初の頃の記事からも、機知に富んだ人柄が解り興味を持って読んでいたら、なんと患部は食道で、同じ頭頸部(私は副鼻腔)で、治療されていたが、呼吸器科も受診し始めたあたりで更新が止まっている。
偶然にも病院も同じ「大阪国際がんセンター」だった。
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この方の入院時期は(大阪国際がんセンターの移転開院後すぐの頃)、それは私は大阪府立成人病センターの最後の頃に入院して、4度目の手術を受けたすぐ後で、今より回数多く通院していたので、ブログを知っていたら是非お目にかかりたい方だった。
ぜひ、一度他の方にも読んでいただきたいなと思うので、病気関係以外で心に残った日の文を一部引用します。
普段のひょうきんな一面を知って、闘病部分を読むと、辛いけれども、また心から人生を大切にしなくてはという、静かな勇気も出てきます。
ブログ主はケアマネージャーとして福祉の仕事で頑張っておられました。
大阪に飛田という旧遊郭があります。
そこに利用者さんの御宅があり、訪れた日には飛田地域への感想を交えた文になっています。
金曜日は飛田新地に住む利用者さんのお宅に
伺う日だ。飛田新地は古い遊郭。その形態を今も
残す、全国でも珍しいのかもしれない
特殊な地区だ。ビックリするくらい可愛い女の子から、
ビックリするくらい・・・なオバサンまで、
皆さんお金で自分を売っておられます。あるお店から、中年のオッサンがスッキリした顔で
出て来たのを見た。仲介役のやり手ババアと、今しがたまで
そのオッサンに抱かれてた女の子が「また来てねえ」と
手を振っていた。(中 略)
うわあ俺、最悪だな・・・ああ、いやだいやだいやだいやだ。
なんでこんな文章書いちまうのかねえ・・・また酒か・・・
明日これを見直したら、またいつもの様に後悔するんだろうな。寝る。がんばれ、がんばれ。
とりあえず、真面目に働け。真面目に生きろ。気をしっかり持て(?)。
明日もいい日にしてみせますよ。じゃ・・・zzz
https://j-45.hatenadiary.org/entry/20050819
すごくマメにブログを書いておられるし、きっとお元気になられたらブログを再開されるなり、閉じる場合は何か一言でも書かれると思うので、中断は本当に気にかかる。
でも存命かどうかということを超えるぐらい、彼という人は、私の心の中では、ずっと輝き続けると思う。
父は自分の死亡通知として、こんな文面のハガキを用意していました。ごく近しい人だけに、こんな風に知らせてという希望だったと話しましたが、ハガキも古くて出せませんでした。代わりにここに書かせていただきます。
「皆さん今まで、本当に長い間お世話になり有難うございました。どうぞお元気で、さようなら。」平成○○年○月○日 天国一丁目一番地 はら しげる
このブログは私ががんになってからの記事が多いので、読んでくださっている方にも、闘病中の方もおられるかもしれないと思い、こんな話題を避けようかとも思ったのですが、片柳弘史神父のTwitterに以下のような言葉があったので、考えを改めました。
「死とは、芋虫が蛹(さなぎ)を通って蝶に生まれ変わるように、一つの命が別の形に生まれ変わるとき通過する節目。暗闇に呑み込まれ、すべてが消えてしまうような死は存在しません。まばゆい光に包まれ、新しい命に生まれ変わる。その瞬間が死なのです。今晩も、皆さんの上に神様の祝福がありますように。片柳神父」
「まばゆい光に包まれ、新しい命に生まれ変わる。その瞬間が死なのです。」とても素晴らしいことだなと思います。
またこの言葉は、私の不思議な体験も思い出させてくれました。まだ退院後日が浅くて、自分の頭のどこかに死があった時期のことです。眠ろうとして布団に入っていた時、いつもと同じ普通の部屋なのですが、周囲全体が光り輝く状態になり、そこへサッカーボールぐらいの大きさの光の玉がスーッと現れたのです。綺麗だなあーと思って幸福な気持ちになりましたが、玉が部屋を半周したぐらいで自然にホワーッと光は薄れて、普通の部屋に戻りました。これはもしかして臨死体験だったのかなと思ったり、ただの夢だった思ったり、半々の気持ちです、それぐらいリアルな体験でした。
新聞記事に気づいて、偽証だと非難を浴びておられる方をとても気の毒に思いました。
新聞記事がこんな事で報道と言えるのだろうかと思うほど、
断片的で簡略すぎる事が誤解の種なのですが、
この話題を取り上げたブログや、メジャーなニュースサイトのコラムなども、
冤罪という点だけをクローズアップしていました。
新聞記事をそのまま全貌と受け止めたSNSのコメント欄が、バッシングの嵐。
案の定、ニュースのまとめサイトにすごい憤りが叩きつけられている。
(見やすいのでリンクしますが、Twitter、FBなども同じ調子の非難がほとんど)
なんとも気の毒な娘さんと孫娘さん。よく辛抱されたなと思います。
他人の「ウソ」と勘違いして憤っておられる方々は、
なぜこの孫娘さんが偽証をしなければならなかったかを考えてみてほしい。
深い真相は当事者でないと解らないですが(*1)、複雑な事情を作ってしまった事は、
偽証者の母の義父だった爺さんに、責任があるだろうに、
この夫婦は、国を訴えてさらに傷を深める必要はどこにあるのだろう?
判決と冤罪被害男性のの記者会見だけ報じる新聞は片手落ち。
偽証したのは男性の孫娘で、複数の証言者も含めて関係者全員が家族・親族(義理も含む)。
男性本人が原因を作った家庭内の性的な「揉め事」です。
公判記録でも義娘には小学校5年〜高校1年まで性的関係があったと本人が認めている[争いのない事実](時効)。
孫に対しては痴漢行為程度←ここが偽証(偽証も虚偽告訴も時効)。
拘束日数に応じた補償2800万円は受領済み。
扶養されているために何年も耐えた、娘や孫娘さんの事が気の毒です。
大新聞やそれを機械的に転載するニュースサイトなどの記事は、
無罪の場合に当然ある補償の事も、公務員の故意過失を問う国家賠償法の、
目的や性質についても触れずに、誤解ばかり拡大して孫娘への非難の嵐です。
法的には冤罪だが、それだけをクローズアップするのは疑問だと思う。
これを高額賠償したら、検察や司法の誤謬を全部国家賠償しなければならなくなり、一族で口裏合わせた詐欺も可能。
現在の刑事補償が低額だという事は、別に考えるべき事だと思う。
*本来は、家庭内の事情は掘り下げて欲しくはないが、もし新聞で報道するのなら、
なぜ訴えられたかも、ある程度は明らかにしないと憶測を生んでしまうし、
冤罪に関しても司法や捜査関係者も巻き込んで非難の嵐が起き、
社会に無用の不信感が生まれると思う。
複雑な背景があるのに、「ウソ」で冤罪とだけ報道する新聞は、
影響力の巨大さを考えているだろうか。
もっともっと深い事情があるかもしれないが、
たいした理由も無くて父親または祖父を訴えるという事は考え難くないだろうか。
訴えるにも大変な労力がいるのに、架空の事で訴えるなんて、できないと思う。
だから一方的に「ウソ」と責められている、
この男性の娘さん・孫娘さんが気の毒で、
記事のタイミングや書き方には、とても疑問を持ちます。
今回の賠償請求は、爺さんの反省不足だと思う。
そして2019年1月8日の請求棄却判決に、さらに大きな疑問の声が上がっているが‥‥、
事実を知った上で、一般論として発言されている人はわずかな様子。
どんな理由でも偽証はダメなのは十分解るが、自ら告白された孫娘さんの心情も理解して、
この件に関しての非難が鎮まる事を切に願います。
(ブログの中に、公判記録へのリンクもあります。)
*強姦被害は「うそ」が多いという見方が増えるのを喜ぶ人もある。
【追記】2019.1.22.
続報や、まとめが出たのでリンクを記します。本当に新聞だけでは何も解りません。
冤罪を防ぐ事は一番大切だが、やはり総合的な事実を考慮しないと、この件に国家賠償するのは腑に落ちない。
*朝日新聞デジタル(2019.1.5.)は、拘束日数に応じた刑事補償の2800万円は受領済みだと有料記事の部分に書いてある。
また有料記事には、複雑な背景がありそうかなという事も含まれるが、事情は理解できない。
(*1)その後、下記のように相当深い内容がわかりました。
文春オンライン 2019.1.22(要約)
実際に性関係があったのは男性の再婚相手の連れ子A子(男性はA子の義父)。
被害者とされていたのは、A子の娘B子。つまり義理の孫です。
A子は母に訴えたものの、慰めどころか「あんたの顔なんか見たくない」と突き放された。
最終的にはA子が高校の教師に相談して、爺さんも隠しきれないと観念し、
親族の前で土下座して謝った。(*2)
A子が結婚してB子と兄が出来たが、DVから逃れるために離婚して、
旅館に住込みで就職したため、幼かったB子とB兄を実家に託した。
その後、再婚してA夫との間に子供が生まれ、落ち着いたのでB子B兄を引き取ろうとしたが(A夫と養子縁組した)、爺さんが20歳になるまではうちで育てると言って渡さなかった(爺さんと養子再縁組)。だからB子は爺の元で育った。
爺がそのまま大人しくしていれば良かったのに、B子にも痴漢行為をしたため、B子が大伯母(A母の姉)に相談し、大伯母がA子に伝えたところA子が激怒した。
痴漢程度だったので爺は否定したが、周囲が信じずにA子の誘導的な問い詰めをして、B子も肯定し、その内容で代弁的な証言をした。B子が成長して弁護士に告白し再審→無罪となった。
2019年1月8日に、国家賠償請求は棄却の判決。